石川県と北陸の高校野球野球の歴史を作ってきた、伝統校、星稜高校。
昭和47年夏の初出場から、箕島高校との延長18回の死闘や、明徳義塾戦の5打席連続敬遠、平成7年・令和元年の夏の甲子園準優勝など、数々の名勝負や記録を残している。
そんな名門で、38年間指揮を執り、春夏合わせて25回甲子園へ導いたのが名将、山下智茂監督である。
山下監督の指導は、野球の指導だけでなく、学校や家庭などの私生活にも細かく指導をしていた。
そのため、学校の勉強を疎かにしている部員に対しては、練習参加を認めないなど、「野球は教育の一環である」という理念を持ち続けていた。
一方で、就任当初の野球の指導は、真夏に12時間以上の練習を行ったり、選手が倒れるまで追い込んだりと、「スパルタ」であった。
「耐えて勝つ」という星稜の野球は、失点をしない守りが必要であると考え、徹底的に守備の強化を目指していた。
守りを鍛えれば、自然と足腰が強くなり、打撃や走力も向上するという持論で、ノックバットを日々振り続けていた。
選手だけでなく自身も追い込み、時には手のひらの皮が血のりでバットが離れなくなるほど、本気で全国制覇を目指していたことから、周囲からは「猛将」とも称されていた。
当時山下監督の発案で生まれた、一対一で選手の技術とメンタルを一度に鍛える「ケンカノック」は現在も星稜の伝統として受け継がれている。
しかし、「スパルタ指導」では、地区や県大会では勝ち進めるものの、甲子園では監督の力以上に選手の能力が必要であることを学び、選手の能力や考えを活かす指導も取り入れた。
監督の指示でしか動けない集団ではなく、自分の考えや感性を試合で発揮できるような組織力のあるチームを作り上げていた。
選手たちをリスペクトし、試合に挑む際の「雰囲気作り」など細かなことにも視野を広げたことで、星稜は平成7年甲子園のベスト4の壁を越え、最高成績となる準優勝の成績を残したのだ。
時代や時間とともに、選手への接し方を変えながらも、野球というスポーツへの熱意は1度も変わることのなかった名将は、高校野球ファン以外の多くの人から、現在も愛され、尊敬されている。
山下監督の果たせなかった夢は教え子の林監督と、選手たちへと受け継がれている。
「「選手が僕以上のことをやらないと日本一っていうのはない」/ 星稜 山下智茂監督」への2件のフィードバック