「今出来ることをやるだけです」/ 池田 岡田康志監督

春夏合わせて甲子園で、40勝を超える勝ち星を挙げている名門、徳島県の池田高校

昭和49年のセンバツ大会での準優勝時には、「爽やかイレブン」の名で注目を浴びると、57年の夏の甲子園で初の全国制覇を成し遂げ翌年のセンバツも制して夏春連覇を達成。

バントや小技に頼らず、次々と積極的な打撃で得点を挙げる「やまびこ打線」で、高校野球ファンから親しまれている。

当時の池田を指揮していたのは、甲子園で春夏合わせて37勝を挙げた名将、蔦文也監督である。

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そんな蔦監督の教え子であり池田高校で指揮を執り、22年甲子園から遠ざかっていた母校を4年で甲子園に導き、勝利をあげるなどの記録を残したのが岡田康志監督である。

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岡田監督は、低迷期にあった名門の復活と、深刻な部員不足の解決を目指し指導していた。

蔦監督の築いた伝統の「強打」の野球を継承しつつも、「できることを精一杯やる」という独自の指導方針を作りチームを育てていた。

名門ではあるものの、甲子園から約四半世紀遠ざかっていたこともあり、スター選手や超高校級の選手は集まらない状態であった。

そのため、かつての「強力打線」などに執着せず、その年に適した野球でチームを作り、選手たちには、「できること」を徹底させていた。

試合では、緊張や不安、自信や過信など、様々な感情で自分の力を発揮できないことが多い。

そこで、日々の練習から基礎基本や自分の得意なことの完成度を上げるよう指導し、過去や世間の評価に左右されない、自分たちの野球を作り上げていった。

また、池田高校人気は現在も続いていて、試合や練習にOBやファンが応援に訪れることもあれば、地域の人が資金面や設備でのサポートをしてくれることもある。

この「やまびこ打線」と共にに蔦監督が残した、「応援されるチーム」という伝統を、次の世代へと繋ぐようにも、選手たちに、「感謝の気持ち」を持ち野球に取り組むよう指導していたことも、池田の復活の要因であった。

センバツは平成26年に出場したものの、夏の甲子園は平成4年の出場が最後である。

蔦監督岡田監督の築いた伝統を受け継いだ池田が聖地で再び躍進する日は近そうだ。

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