「負けてても最後まで投げきるっていうことに自分の思いは詰まっていた」/ 平安 川口知哉選手

1997年の甲子園に春夏連続出場し、夏の選手権では準優勝を成し遂げた、京都府の平安高校(現・龍谷大平安)

当時、チームのエースと4番、更には主将といった大役を務め、準優勝の立役者となったのは、川口知哉選手である。

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川口選手は、中学時代に実績を残していたことから、平安高校進学後直ぐに、能力の高さを評価され、1年夏からエースを任された。

しかし、府大会初戦で、後にプロ入りを果たす、超高校級投手との投げ合いに敗れ、OBやファンからは野次を飛ばされるなど、苦しいスタートとなった。

そんな悔しさを糧に、冬場には人一倍の練習量を自らに課し、心身共に鍛え上げると、2年の春の近畿大会では、優勝へと導いた。

夏の甲子園は逃すも、2年秋の新チーム以降は、主将や主軸といった役職も務めながら、センバツ出場へと導くと、甲子園で8強に進出した。

迎えた、最後の夏は府大会を制すると、甲子園に「1試合最低10奪三振」というノルマも掲げ、本気で全国制覇を目指し乗り込んだ。

甲子園では、全6試合に登板し完投、820球を投げ抜き、51の三振を奪う力投を見せ、チームを41年ぶりの決勝へと導き、準優勝に貢献した。

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