「『5打席連続敬遠された』という事実にふさわしい打者に成長しよう」/ 星稜 松井秀喜選手

1992年の甲子園に、春夏連続出場を果たし、センバツでは8強に進出した、石川県の星稜高校。

当時、チームの主軸を務めていたのは、甲子園での4本を含む、高校通算60本塁打を記録していた、松井秀喜選手である。

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松井選手は、幼少期から並外れ体格を活かし、野球以外にも、柔道や相撲大会に参加しても優勝するなどの成績を残していたため、県内のスポーツ界では有名であった。

星稜高校進学後も、規格外のパワーを発揮し、1年生でチームの4番を任されると、推定140メートルの飛距離の本塁打を放つなど、全国から注目を集めていった。

2年時の夏の甲子園で、初の本塁打を放つと、秋の神宮大会では主将としてチームを優勝に満ち引き、センバツでも2打席連続を含む3本塁打で、8強進出に大きく貢献した。

しかし、迎えた最後の夏は、優勝候補にも挙げられ注目されるも、2回戦では、明徳義塾の「5打席連続敬遠」で1度もバットを振れず甲子園を去るという、悔しい結末に終わった。

それでも、明徳義塾に対して不満を嘆いたり批判することもなく、今後の人生で相手チームの作戦が正しかったことを証明するために、成果を出すことを誓い、引退後も練習を続けていった。

高校最後となった国体では、監督からの本塁打のサイン通りに、高校最後の打席で本塁打を放ち、チームを優勝に導き、有終の美を飾ったのであった。

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