「一人一人の限界は違うけど、限界の限界をいかに伸ばしてやるかが大事」/ 星稜 山下智茂監督

数々の名勝負を繰り広げながらも、後一歩のところで敗れていることから、山下智茂前監督は、「負ける度に有名になるチーム」と自身の指揮した星稜高校を言い表す。

監督就任当時は、県内ですら無名で、専用グランドもなく、部員も9人に満たない状態であったが、どこにも負けない情熱で北陸の野球を根本から変えていった。

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当時の北陸勢には、冬場に雪が積もることで、他の地区より練習量が確保できず、年中外で野球のできるチームには適わないという雰囲気が漂い、多くの指導者も心のどこかで諦めていた。

しかし、山下監督は、そうした気持ちの面で負けることを嫌い、雪国以外のチーム以上の練習量を課し、選手たちに自信を持たせることを目指した。

結果がすぐにで始めたこともあり、真夏に12時間の練習を行うなど、年々増え続けていった練習量は、全国トップレベルになっていた。

猛練習は選手だけに課すのではなく、山下監督自身も、一緒に汗を流し、ノックバットに血がついても振り続ける姿勢を見せるなどして、限界や諦めのラインを自分で決めつけないことを、身をもって伝えていた。

その一方で、野球の「監督」以前に「教育者」であると考え、学業や学校生活にも厳しく指導し、野球技術の高い選手であっても、学生として相応しくないと判断した場合には、練習参加を認めないなど、人として成長させるという目的を常に持ち続けていた。

野球というスポーツはあくまで、成長するための手段であり、勝利や活躍が目的にならないように、レギュラー選手には特に厳しく接していた。

そのような考え方や、甲子園で結果を残したり、スター選手を育てても謙虚に振舞う姿勢が、周囲から評価され、「人格者」とも称されている。

現在は若手指導者育成のための、「甲子園塾」の塾長として、大人への指導も行う山下監督の指導者としての人生はまだまだ続く。

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