高校野球界では、「戦国の千葉」と称されている激戦区で、昭和の終わりから平成初期にかけて一時代を築き、その後も県のトップに名を連ねている 名門拓大紅陵。
昭和59年のセンバツに初出場すると、甲子園常連校として、全国から注目を集め、平成4年の夏の甲子園では、名門、強豪、甲子園優勝経験校などを倒し堂々の準優勝を成し遂げた。
そんなチームを平成26年まで指揮していたのが、名将小枝守監督である。
小枝監督は日本代表チームを指揮するなど、監督としての知名度、経験、実績を考慮すると文句なしの高校野球界のレジェンド監督である。
そんな小枝監督は平成4年の準優勝当時、珍しいとされていた複数投手の起用で、快進撃を続けた。
継投や先発起用が難しい複数投手制は、不利とされていた。
しかし、監督は日々の練習や、私生活から選手の能力だけでなく、性格や癖を見極めていた。
それらを考慮し、選手にとってベストのタイミングで投手起用をしたことで、決勝の舞台まで勝ち進めたのだ。
決勝では敗れたものの、訪れたいくつものピンチで伝令を使わなかったのは、監督が選手達を理解し、自分たちで乗り切れることを分かっていたからだ。
この「選手への信頼」が強さの要因であり、小枝監督が名将と称される所以なのだろう。