「原因を克服するには、自分で考えること」/ 東邦 森田泰弘監督

春夏合わせてを70超える勝ち星を挙げ、センバツ大会では全国最多の5度の優勝を記録している愛知県の名門、東邦高校。

そんなチームを2004年から指揮しているのは、選手時代に主将として夏の甲子園準優勝を経験している、OBの森田泰弘監督である。

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「自習練習では満足いくまで練習をすること」/ 東海大菅生 勝俣翔貴選手

2014年の秋の東京都大会を18年ぶりに制して、センバツ大会出場を果たした東海大菅生高校。

当時チームの投打の主軸を務めセンバツ出場に貢献したのは、高校日本代表にも選出され、打点王と首位打者の二冠に輝く実績を残した、勝俣翔貴選手である。

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「練習は何をやるかじゃない、 どうやるか」/ 國學院栃木 柄目直人監督

1985年夏の甲子園初出場後、センバツでの4強進出などを筆頭に、地区や県だけでなく、全国でも成績を残している國學院栃木高校。

そんなチームを指揮しているのは、選手時代に1番打者としてセンバツ甲子園4強進出に貢献した実績を持つ、 OBの柄目直人監督である。

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柄目監督は、選手時代に圧倒的な練習量やスパルタの指導で成果を残した経験から、監督就任当初は練習量と厳しさを重視して指導していた。

また、県内の最大のライバルである作新学院の練習スタイルや指導法を取り入れるなど、甲子園を強く意識し選手たちを育てていた。

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しかし、時代の流れによって選手たちの考え方や価値観の変化が進むにつれ、柄目監督の指導が合わない状態が続き、成績も残せない時期が続き、監督自身も体調を崩してしまった。

そこで、今どきの選手たちの考えや価値観を受け入れることを考えたり、芸術や人との会話などの野球以外のものからも学ぶ機会を作り、自身の価値観を見直し指導方針も大きく変えた。

短い練習時間で成果を出すスタイルや、野球以外の社会に出てから役に立つスキルを指導するなど、成果を重視するのではなく、成長を目的に選手と接するようになっていった。

2017年に作新学院を敗り県大会を制すると、18年ぶりに出場した翌年のセンバツでは16強進出を果たすなど、復活を遂げた柄目監督と國學院栃木の活躍に今後も期待だ。

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「一球一球を追いかけていくことしか、目標に近づく道はない」/ 済美 安樂智大選手

2013年のセンバツで、初出場時から続く春の甲子園の連勝記録を9に伸ばし、準優勝を成し遂げた愛媛県の済美高校。

当時チームのエースを2年生ながら務めていたのは、全5試合に先発登板し46イニングを投げる力投を見せ、全国から注目を集めた安樂智大選手である。

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安樂選手は、地元の名門済美に進学する際に、「全国制覇」、「球速160キロ」、「ドラフト1位でプロ入り」という約束を上甲正典監督と交わしていた。

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大きな目標を叶えるために、入学後すぐから他の部員以上の練習量を自らに課し、厳しいトレーニングやランメニューにも積極的に取り組んでいった。

練習量が評価され、1年秋の新チームからは背番号1を背負い、秋の県大会と地区大会を勝ち抜きセンバツ出場を決めると、更なるレベルアップを目指し、新たな変化球の取得とストレートの精度を磨くことをスタートさせていった。

迎えた2年春の甲子園では、772球の熱投でチームを準優勝に導き、夏の甲子園では大会最速記録に並ぶ155キロを記録し、日本代表にも選出された。

全国の舞台での数々の成績で周囲から評価や期待をされる一方、「投げ過ぎ」で怪我をしてしまい、2年秋の以降は投球が難しい状態となっていった。

それでも主将としてチームを支える役割とリハビリを並行して行い、最後の夏には約300日ぶりの公式戦のマウンドに復帰を果たし、悲願のドラフト1位でプロ入りを果たしたのであった。

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「せっかく好きで野球をしているのだから、自分自身の意思で野球に取り組んでほしい」/ 慶応義塾 森林貴彦監督

1888年の創部からスタートし、数々の伝統と実績を残し、激戦区神奈川で毎年上位進出で注目を集める慶應義塾

そんな名門を2016年秋から指揮しているのは、監督業と並行して小学生の担任を務めるなどの異色なスタンスをとる、森林貴彦監督である。

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森林監督は、慶應の伝統でもある「エンジョイベースボール」を受け継ぎながら、100人を超える部員全員に目標や役割を与えて指導している。

慶應では、選手たちが主になって行う自主練が有名ではあるが、全員が同じ練習メニューと量をこなすことで得られる一体感を重視し、班わけなどは行うものの、基本的には全員同じ練習に参加させている。

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また、上田誠前監督時からの伝統である大学生コーチによる指導やアドバイスをメインとして、監督自らは、ほとんど注意や指導をせず、サポート役に徹している。

自身の経験から、大人から怒られたり指摘されると、野球や練習に対する気持ちが後ろ向きになり、練習の質が下がってしまうと考え、敢えて深入りをせず見守るスタイルを続けている。

その他にも、古くから残る理不尽な上下関係や坊主の強制など、理論に基づいていないものや、合理的でない伝統は全て廃止し、選手たちが野球だけに集中できる環境作りを行っている。

周囲からは、批判を受けることもあるが、推薦や特待生制度なしのメンバーのみで、就任3年目に甲子園春夏連続出場を果たすなど、名門復活を結果で示した、森林監督から今後も目が離せない。 

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「練習で出来ないことは、試合で出来ない」/ 仙台育英 上林誠知選手

2013年の夏の甲子園の初戦で、壮絶な打撃戦を制してこの年のセンバツ優勝校の浦和学院を敗る大金星を挙げた、仙台育英高校。

当時チームの主将を務めていたのが、チームの主軸として秋の神宮大会優勝の立役者となった、上林誠知選手である。

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上林選手は、小学1年時から野球を始めると、中学時代には全国優勝を経験するなどの実績も残していた。

仙台育英に進学後は、1年秋から4番としてスタメンで試合に出場し、2年の夏の甲子園では、3試合で打率4割5分を超える高打率を残し、全国からも注目を浴びる存在となっていった。

そんな試合で多くの結果を残していた上林選手を支えていたのは、試合に向けての「準備力」と試合でベストを「出し切る力」であった。

ルーティンを意識し、練習を試合と同じ気持ちや感覚でで取り組むことに加え、グランド外の私生活においても「普段通り」を徹底し、起床時間や睡眠時間にも変化をつけないようにし、余計なことに緊張感を使わずにしていた。

そして、万全の状態で臨む試合で本領を発揮できない場合でも、できることを探してチームの勝利に貢献できる役割を見つけて徹するなど、その日の自身の100%を出し切ることを欠かさず続けていた。

試合までの準備と試合での対応力を身につけたことで、2年の秋の神宮大会では攻守の活躍で全国制覇に貢献し、不調に苦しんで3年時にも甲子園に春夏連続チームを導いたのであった。

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「今いる選手たちに最高の結果を出してもらうための練習を考える」/ 富島 浜田登監督

2018年のセンバツ大会に、廃部の危機を乗り越え初出場を果たしたことで、全国から注目を浴びた宮崎県の富島高校。

チームを2013年から指揮しているのは、母校の宮崎商業を甲子園へ導いた実績を持つ、浜田登監督である。

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「自己管理という面で一番大事なのは毎日の反省」/ 花巻東 大谷翔平選手

2012年のセンバツ大会に夏春連続で出場を果たし、優勝候補にも挙げられていたのが、岩手県の花巻東高校である。

当時チームの投打の中心選手として、全国から注目を集めていたのが、大谷翔平選手である。

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小学3年生から野球を始めた大谷選手は、県勢初のセンバツ準優勝を成し遂げた09年の花巻東のチームカラーと菊池雄星選手に憧れ進学した。

小学5年時に110キロを超える球速を記録していたことや、中学時代に全国大会に出場していたこともあり、入学時から注目を浴びていたが、身体の成長段階であるという指導者の判断から、1年時は投手より負担の少ない野手としてスタートしていった。

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野手の時代には、明確な目標を立て、自己管理を徹底し、反省して課題を見つけるなど、技術以上に、目的への正しいプロセスを学び身につけていった。

目標にも具体的な数字や達成までの日数を掲げ、グランドだけでなく私生活においても一日一日の過ごし方に細かくノルマを設けていた。

その結果、1年秋の新チームからは投手としても結果を残しはじめ、怪我で調整が難しい中で出場した2年の夏の甲子園では、2年生としての最速記録に並ぶ150キロを記録するなど、確実に成長を遂げていった。

迎えた最後の夏は甲子園出場は逃すも、アマチュア野球史上初の160キロを記録し、高校野球の歴史に名を残したのであった。

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「指導者は選手を育てるより、つぶす方が多い」/ 福井商 北野尚文監督

甲子園に県勢最多となる、春夏合わせて30を超える出場を記録している、北陸を代表する名門、福井商業高校。

そんなチームを1968年から2010年まで指揮していたのは、1978年のセンバツでは準優勝へ導いた実績を持つ北野尚文監督である。

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