「何かを捨て去ることも必要」/ 済々黌 池田満頼監督

1958年の30回記念のセンバツ大会で九州勢として初の甲子園制覇を成し遂げたのが、熊本県の済々黌である。

進学校でありながらも、甲子園には春夏合わせて10回以上の出場回数を誇る、熊本を代表する伝統校である。

そんな済々黌を2012年夏に18年ぶりに、13年のセンバツには55年ぶりの甲子園へ導いたのが池田満頼監督である。

池田満頼監督の記事はこちら。

池田監督の指導は、済々黌野球の伝統である「徹底」を重視していた。

だが、他の強豪校とは異なり「徹底」を全てに求め「完璧」を目指すのではなく、何か一つを徹底して結果を出す「完了」を目指すよう指導していた。

激戦の県や地区を勝ち抜く上で、走攻守全ての完璧を求めるのには、限度があり進学校では難しいことが多い。

そこで、選手たちには苦手なものを捨てさせ、良い部分だけを徹底して伸ばして、弱点や短所をカバーするように伝えていた。

各選手に1つずつ役割を持たせ、それらを徹底させるが、課題以上のものは求めず、役割を果たすことに専念させていた。

何かを捨てるが、何かは必ず得る選手が集まり、組織として闘うことで、「割り切る野球」が形として成り立っているのだ。

この「割り切る野球」の考えは、練習だけでなく試合でも活用されている。

相手が好投手であれば、狙い球が来ずに三振することも承知したり、好打者には単打であれば出塁を容認したりと、できないことを無理をせず、できることにのみに集中させていた。 

また、進学校の特性を生かし、頭を使った野球や工夫をした作戦を練習時から取り入れている。

攻撃では、長打や連打でに頼るのではなく、出したランナーをノーヒットで進めたりすることを意識した攻め方を練習している。

そのため、相手のミスを利用した得点を挙げることもあり、「セコい野球」と批判されることもあるが、隙を見つけて上手く攻め込む頭を使った野球は、実力にほかならない。

一つのことだけに選手が徹底できる環境を作り、全員野球で挑むスタイルが、古豪復活を後押ししたのだろう。

県勢初の夏の甲子園制覇も目標に済々黌は「徹底野球」の伝統で鍛えている。

済々黌の記事はこちら。

【関連】熊本工業の記事はこちら。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です