2002年の甲子園に春夏連続出場を果たし、夏の選手権では、準優勝を成し遂げた、智弁和歌山高校。
当時、チームのエースを務めていたのは、サイドスローの技巧派として注目を集めていた、田林正行選手である。
田林選手は、中学の顧問が高嶋仁監督の教え子であったことから、智弁和歌山への進学を後押しをされ、入学することとなった。
しかし、入部当初は、初の硬式野球と全国トップレベルの練習量苦戦したことに加え、周囲の選手たちのレベルの高さにも圧倒され、ついていくのが精一杯の状態であった。
それでも、失敗や挫折を経験していくうちに、成長しはじめると、1年の冬には、サイドスローへ転向するようアドバイスを受けたことが転機となり、本格的に投手を担うようになっていった。
慣れないサイドスローには、身近なお手本もなく、相談する先輩もおらず、毎日が試行錯誤の繰り返しではあったが、自分で考える癖が身につくなど、成長の後押しとなった。
初の甲子園となった3年春は、初戦敗退を喫するなど、悔しい結果に終わったが、敗戦を糧に、夏前に決め球となる変化球を取得するなど、プラスに働かせた。
そして、最後の夏には、甲子園で5試合登板し、チームを準優勝に導くなど、大躍進を見せたのであった。