1969年の夏の甲子園で、史上初となる決勝戦延長18回引き分け再試合の激闘を繰り広げるも、惜しくも敗れた三沢高校。
当時、チームのエースを務めていたのは、決勝戦の再試合も含む、準々決勝からの45イニング連続登板で、準優勝の立役者となった太田幸司選手である。
太田選手は、幼少期から父の影響を受け野球を始めると、その際知り合ったチームメイトと共に、中学、更には三沢高校へ進学したのであった。
三沢高校入学後は、走り込みと球拾い、バッティングピッチャーなど、裏方の仕事が多かったものの、一生懸命取り組んだことで、スタミナと肩の強さを身につけていった。
やがて、1年秋からエースを任されると、コントロールに課題はあったものの、速球を武器に結果を残し始め、2年の夏にはチームとして初の甲子園出場へ導いた。
甲子園で1勝を挙げると、翌年のセンバツにも出場するなど、勢いをつけ始めていたチームは、夏は甲子園2勝を合言葉に練習に励むようになり、太田選手も1日500球の投げ込みで、力をつけていった。
迎えた最後の夏は、悲願の甲子園2勝を達成すと、県勢初の決勝進出を果たし、名門、松山商業相手に延長18回までくらいつき、引き分けへ持ち込んだ。
翌日の再試合では、連投の疲れもあり惜しくも敗れるも、球史に残る激闘の記録と記憶を残し、甲子園を去ったのであった。