「1番をつけている限り、マウンドは譲りたくなかった」/ 日本文理 飯塚悟史選手

2013年の神宮大会準優勝を成し遂げ、翌年の夏の甲子園では、4強進出を果たした新潟県の日本文理高校。

当時のチームをエースとして支えていたのは、常時140キロを超える制球力抜群のストレートを武器としていた、飯塚悟史選手である。

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飯塚選手は、軟式野球部に所属していた中学時代に、全国準優勝を経験していたことから、県外からも注目される選手であった。

そんな中、県勢初の甲子園準優勝を成し遂げた日本文理への憧れが進路の決め手となり、進学すると1年時からベンチ入りし、秋からは投手の中心を担うようになっていった。

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しかし、スピードばかりを求めるあまり、フォームを崩し、コントロールが定まらず、最終的には怪我をするなど、ほろ苦いスタートとなった。

本来のピッチングを見失い、大事な場面でも思うような投球ができず、周囲や監督からも信頼を得られずにいた飯塚選手は、スピードへのこだわりを捨て、チームが勝つための投球を意識するようになっていった。

三振や被安打など投球内容にも課題を見つけては修正し、チームの敗因を少しでもなくすような努力を続けていた。

迎えた最後の夏は、全試合を一人で投げ抜き、敗れた準決勝も最後までマウンドに立ち続け、エースとしての責任を果たしたのであった。

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