「投手が追い求めるべきは、球速よりも制球力」/ 作新学院 八木沢荘六選手

1962年の甲子園で、史上初となる春夏連覇を成し遂げた栃木県の作新学院高校。

当時、チームのエースを務めていたのは、センバツ大会で全5試合に登板し、自責点2の活躍で、優勝に貢献した、八木沢荘六選手である。

作新学院の記事はこちら。

八木沢選手は、作新学院に入学すると、2年時には、チームのセンバツ初出場初勝利に完封で貢献するといった形で、全国デビューを果たした。

しかし、チームの打力が著しく低かったこともあり、センバツでは2戦目で、夏の選手権では、まさかの地方大会で敗退となった。

そこで、新チームとなった2年の秋以降は、守り勝つ野球を重視し、ノックで守備力を高めるチームメイトに対して、八木沢選手など投手陣は、徹底した下半身強化と投げ込みを行った。

迎えたセンバツでは、準々決勝の延長18回を1人で投げ抜き、再試合も救援して、チームに勝利をもたらすと、決勝戦も完封で初優勝へ導いた。

だが、春夏連覇を期待されて望むこととなった、夏の甲子園では、開幕直前に赤痢が発覚し、治療に専念するために入院となり、グラウンドを離れることとなった。

それでも、八木沢選手は回復後に、チームを声で支えるなど、ベンチ内のエースとしてのサポートを続けると、二番手投手の力投もあり、チームは春夏連覇という最高の結果を成し遂げたのであった。

【関連】江川卓選手の記事はこちら。

【関連】今井達也選手の記事はこちら。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です