2018年の夏の甲子園で、下馬評を覆し8強進出を果たした兵庫県の報徳学園高校。
当時のチームを走攻守で引っ張っていたのは、2年時から高校日本代表に選ばれるなどの実績を持ち、世代ナンバー1遊撃手とも称されていた、小園海斗選手である。
“「地元の兵庫の学校が初戦で負けるわけにはいかない」/ 報徳学園 小園海斗選手” の続きを読む2018年の夏の甲子園で、下馬評を覆し8強進出を果たした兵庫県の報徳学園高校。
当時のチームを走攻守で引っ張っていたのは、2年時から高校日本代表に選ばれるなどの実績を持ち、世代ナンバー1遊撃手とも称されていた、小園海斗選手である。
“「地元の兵庫の学校が初戦で負けるわけにはいかない」/ 報徳学園 小園海斗選手” の続きを読む甲子園で春夏合わせて70を超える勝ち星と3度の全国制覇を記録している奈良県の名門、天理高校。
そんなチームを2015年から指揮しているのは、選手時代に主将として全国制覇にチームを導いた実績や、プロ野球で活躍した経験を持つ、中村良二監督である。
“「選手のために準備するのが指導者の仕事」/ 天理 中村良二監督” の続きを読む2017年の夏の甲子園で、驚異的な打撃力で勝ち進み、4度目となる準優勝を成し遂げた、広島県の広陵高校。
当時チームの4番捕手を務めていたのは、夏の甲子園最多本塁打記録となる6本塁打を放つなどの活躍を見せた、中村奨成選手である。
“「相手の一番のボールを打ち返したい」/ 広陵 中村奨成選手” の続きを読む夏の地方大会に第1回大会から参加している皆勤校であり、春夏合わせて甲子園に20回以上の出場を誇る、鳥取県の名門、米子東高校。
チームを2013年夏から指揮しているのは、選手時代に主将を務め県大会優勝へ導いた実績を持つ、OBの紙本庸由監督である。
“「『何かをする』ということは、イコール『何かをしない』」/ 米子東 紙本庸由監督” の続きを読む2016年の夏の甲子園でベスト16入りを果たした、大阪府の履正社高校。
当時チームのエースを務めていたのは、最速150キロを甲子園で記録し、日本代表にも選出された、寺島成輝選手である。
“「気持ちが一番強いチームが勝つ」/ 履正社 寺島成輝選手” の続きを読む春夏合わせてを70超える勝ち星を挙げ、センバツ大会では全国最多の5度の優勝を記録している愛知県の名門、東邦高校。
そんなチームを2004年から指揮しているのは、選手時代に主将として夏の甲子園準優勝を経験している、OBの森田泰弘監督である。
“「原因を克服するには、自分で考えること」/ 東邦 森田泰弘監督” の続きを読む2014年の秋の東京都大会を18年ぶりに制して、センバツ大会出場を果たした東海大菅生高校。
当時チームの投打の主軸を務めセンバツ出場に貢献したのは、高校日本代表にも選出され、打点王と首位打者の二冠に輝く実績を残した、勝俣翔貴選手である。
“「自習練習では満足いくまで練習をすること」/ 東海大菅生 勝俣翔貴選手” の続きを読む1985年夏の甲子園初出場後、センバツでの4強進出などを筆頭に、地区や県だけでなく、全国でも成績を残している國學院栃木高校。
そんなチームを指揮しているのは、選手時代に1番打者としてセンバツ甲子園4強進出に貢献した実績を持つ、 OBの柄目直人監督である。
柄目監督は、選手時代に圧倒的な練習量やスパルタの指導で成果を残した経験から、監督就任当初は練習量と厳しさを重視して指導していた。
また、県内の最大のライバルである作新学院の練習スタイルや指導法を取り入れるなど、甲子園を強く意識し選手たちを育てていた。
しかし、時代の流れによって選手たちの考え方や価値観の変化が進むにつれ、柄目監督の指導が合わない状態が続き、成績も残せない時期が続き、監督自身も体調を崩してしまった。
そこで、今どきの選手たちの考えや価値観を受け入れることを考えたり、芸術や人との会話などの野球以外のものからも学ぶ機会を作り、自身の価値観を見直し指導方針も大きく変えた。
短い練習時間で成果を出すスタイルや、野球以外の社会に出てから役に立つスキルを指導するなど、成果を重視するのではなく、成長を目的に選手と接するようになっていった。
2017年に作新学院を敗り県大会を制すると、18年ぶりに出場した翌年のセンバツでは16強進出を果たすなど、復活を遂げた柄目監督と國學院栃木の活躍に今後も期待だ。
2013年のセンバツで、初出場時から続く春の甲子園の連勝記録を9に伸ばし、準優勝を成し遂げた愛媛県の済美高校。
当時チームのエースを2年生ながら務めていたのは、全5試合に先発登板し46イニングを投げる力投を見せ、全国から注目を集めた安樂智大選手である。
安樂選手は、地元の名門済美に進学する際に、「全国制覇」、「球速160キロ」、「ドラフト1位でプロ入り」という約束を上甲正典監督と交わしていた。
大きな目標を叶えるために、入学後すぐから他の部員以上の練習量を自らに課し、厳しいトレーニングやランメニューにも積極的に取り組んでいった。
練習量が評価され、1年秋の新チームからは背番号1を背負い、秋の県大会と地区大会を勝ち抜きセンバツ出場を決めると、更なるレベルアップを目指し、新たな変化球の取得とストレートの精度を磨くことをスタートさせていった。
迎えた2年春の甲子園では、772球の熱投でチームを準優勝に導き、夏の甲子園では大会最速記録に並ぶ155キロを記録し、日本代表にも選出された。
全国の舞台での数々の成績で周囲から評価や期待をされる一方、「投げ過ぎ」で怪我をしてしまい、2年秋の以降は投球が難しい状態となっていった。
それでも主将としてチームを支える役割とリハビリを並行して行い、最後の夏には約300日ぶりの公式戦のマウンドに復帰を果たし、悲願のドラフト1位でプロ入りを果たしたのであった。