「1回戦で負けても決勝で負けても、涙の重みは変わらない」/ 徳島商業 川上憲伸選手

1993年の夏の甲子園で、7点差を逆転して初戦突破をすると、勢いそのままに勝ち進み、33年ぶりとなる8強進出を果たした、徳島商業高校。

当時、チームの4番でエースを務め、投打の柱として快進撃を支えていたのは、川上憲伸選手である。

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川上選手は、小学6年からの野球を始めるも、当初は遊撃手を中心とした、野手として試合に出場し、打者として活躍をしていた。

徳島商業へ進学後も2年時までは、野手を務めていたが、肩の強さを監督にの評価されたことがきっかけで、投手に転向すると、エースを任されることとなった。

しかし、投手を始めたばかりということもあり、球速はあるものの、コントロールが定まらず、四死球を出すことも多く、苦戦を強いられていた。

そこで、毎日厳しいランメニューをこなし、足腰を強化すると、投げ方も肩の強さに頼らない下半身を使ったフォームへと変更した。

3年時には、投げ込みを行い安定感を増すと、球速とコントロールを武器とした投球で、夏には、甲子園出場へとチームを導いたのであった。

甲子園では、初戦で7点のビハインドを背負うも、仲間の援護もあり劇的な大逆転で勝利すると、2戦目は1失点の好投を見せ、8強進出に大きく貢献したのであった。

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