平成5年の夏に初出場を果たすと、11年の夏は4強まで勝ち進み、平成16年からは県勢初の夏の県大会6連覇を成し遂げた、強豪青森山田高校。
数々の記録を残し、プロ野球選手を多数輩出し、平成の青森県と東北地区の高校野球を引っ張ってきた存在である。
そんなチームを指揮していたのが、母校の日大山形と青森山田を全国レベルへ育て上げ、両校合わせて甲子園に22度導き、16の勝ち星を挙げた記録を持つ渋谷良弥監督である。
渋谷監督は、平成28年に山形商業の監督を勇退し、45年の監督人生を終えると、31年春からは青森山田で、アドバイザーとしてチームを支えている。
25歳で日大山形の監督に就任した際から、選手たちに甲子園を経験してもらうために、「3年で1度は甲子園に行く」という目標を立て日々指導していた。
監督就任当時は、生活態度などにも細かく指導をし、選手たちと何度も衝突を繰り返したことで、20人いた部員が2人になることもあった。
あまりに徹底した厳しい指導は、周囲からは「鬼の渋谷」と称されるほどであった。
当時無名であった日大山形は、試合でも勝てない状態が続いていたが、辛抱強く選手たちと向き合い、問題を先送りにせず「負けからのスタート」を合言葉に日々練習を続けていった。
選手たちが公式戦で自信がなさそうなプレーをしていた際には、敢えて実力の低いチームと練習試合をし、勝利や活躍することで「自信」を持たせるなど、独自の精神面の強化も行なっていた。
やがて、昭和48年のセンバツでは、県勢初のセンバツ出場を記録したと同時にセンバツ県勢初勝利も挙げた。
渋谷監督の教え子は1000人を超えているが、中には3年間で1度も甲子園経験できなかった選手たちや、ベンチ入りをできなかった部員もいる。
しかし、甲子園の出場や野球の上手い下手に関係なく、平等に進学や就職の面倒を見るなど、全員に選手と監督という間柄ではなく、生徒と教師として愛情を注いでいた。
また、現在でも技術的な指導だけでなく、服装を正すことやグランド整備の大切さ、野球に対する気持ちの持ち方などを重要視し、高校生だけでなく小中学生などの野球選手も指導している。
監督としては果たせなかった全国制覇の夢を新たな立場から目指している。
「「試合に出られるかどうかよりも、最後までやり切ることが大切なのです」/ 青森山田 渋谷良弥監督」への1件のフィードバック