「間違いがあっても、それを教訓にできればいい」/ 中越 鈴木春祥監督

1978年の夏に初出場後、県内最多となる夏の甲子園の出場回数をマークしている新潟県が誇る強豪、中越高校。

80年代には、夏の選手権に4度出場していたものの03年以降は甲子園から遠ざかっていたが、15年に夏の出場を界に、再び県や全国で活躍を続けている。

そんな中越高校を22歳から20年以上指揮を執り、夏の甲子園に7度導いた実績を持つ、鈴木春祥監督である。

鈴木春祥監督の記事はこちら。

鈴木監督は、「主体性」を重んじた指導で、のびのび野球を目指してチーム作りを行っていた。

監督就任当初は、選手たちに練習や試合の全ての行動に対して指示を出す、一方通行の指導ばかりを続けていた。

しかし、監督の指図がなければ動けない「指示待ち」状態の選手しか育てていなかったため、県大会では勝ち進めるも全国の舞台では全く歯が立たず、4大会連続初戦敗退という結果が出ない状態が続いた。

そこで鈴木監督は、選手たちが自ら考えて動ける選手たちを育てることが必要と考え、ある程度のことを選手たちに任せるスタイルを確立した。

練習では試合を意識させることには力を入れていたが、無茶な根性論を押し付けることなどをやめ、何事も考えさせる習慣をつけさせたことで、チームは劇的に変化を遂げ、1994年には甲子園でも初勝利を挙げ、全国のベスト16まで勝ち進んだ。

場合によっては、厳しい指導も行ってはいたが、試合では怒ることをせず、サインを出すのは最小限にとどめていた。

甲子園出場した際にも、試合までの調整を選手に一任し、時には練習をオフにして関西の観光をすることも認めるほど、選手たちを信頼していた。

また、選手時代に投手であった鈴木監督は、投手の身体のケアの大切さを理解していたため、多少の不調でも無理をさせず登板を回避させるなど、怪我の選手を出さない指導者でもあった。

そして、実際に甲子園を経験したOB選手たちにも、技術や精神面のアドバイスをもらうような機会をつくり、選手たちの不安を取り除いたり、自信を持たせるようにしていた。

野球部に在籍している部員んだけで戦うのではなく、卒業生や周りのサポートを受けて戦うことが、中越の強さを支えているのだろう。

センバツの初出場と、県勢の悲願を目指し、鈴木監督の作った伝統を守りながら、今日も中越は甲子園を目指し練習をしている。 

中越高校の記事はこちら。

【関連】日本文理の記事はこちら。

「「間違いがあっても、それを教訓にできればいい」/ 中越 鈴木春祥監督」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です