「投手は『こいつのためなら』と、野手に思ってもらえないといけない」/ 松山商業 井上明選手

2年連続の出場となった、1969年の夏の甲子園で、決勝戦引き分け再試合を制して全国制覇を成し遂げた、愛媛県の松山商業

当時、チームのエースを務めていたのは、2年時から主力投手として活躍していた、井上明選手である。

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井上選手は、2年時からエースを務め、甲子園出場に導き、全国の舞台を経験するも、「名門のエース」という重圧もあり、秋の新チーム以降は、遊撃手としてプレーするようになった。

しかし、エースとなった選手が怪我を発症するアクシデントがあり、夏の大会3ヶ月を切った状態で、再びマウンドに戻ることとなった。

前年まで投手をしていたことと、遊撃手を経験したことで、手首の使い方が向上していたこともあり、井上選手は、直ぐにエースとして活躍していった。

それでも、結果だけに満足せず、他の選手に取り組む姿勢で納得してもらうために、授業態度を正したり、練習量を人の倍こなすなど、仲間から信頼させることも目指した。

迎えた最後の夏は、2年連続の全国へチームを導くと、甲子園でも快投を続け、決勝では幾多のピンチを防ぎ、延長18回、232球を投げ切り、再試合へと持ち込んだ、

翌日の再試合では、チームの継投策の方針により、マウンドを途中で譲る形とはなったが、先発の役目を充分に果たし、全国制覇に貢献したのであった。

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