1981年の甲子園に春夏連続出場し、センバツでは8強、選手権では16強まで勝ち進んだ、秋田経大附属高校(現・明桜高校)。
当時、チームのエースを務めていたのは、甲子園で2完封を含む4勝を挙げた、松本豊選手である。
松本選手は、小学3年時から野球をはじめると、6年生では県大会準優勝に貢献し、中学時代には主力投手として活躍していたこともあり、県内の複数の高校からスカウトが来ていた。
そんな中、初の甲子園出場を目標に掲げ、強化をめざしていた、秋田経大附属へ進学すると、1年の春からベンチ入りも果たした。
しかし、中学時代までに経験したことのない過酷な練習に苦戦を強いられ、入部から1ヶ月程で退部を考えるまでに追い込まれるなど、野球を諦めかけていた。
それでも、1年の夏の予選で打ち込まれ敗戦を経験したことに悔しさを覚え、以降はリベンジすることを目標に、練習に取り組んでいった。
やがて、変化球を習得し、勝てる投球術を研究するなどの成果が実り、チームにとって初の甲子園出場へ導くと、甲子園でも2完封を含む活躍で、8強進出を果たした。
最後の夏には、春夏連続出場を決め、3回戦で延長10回サヨナラ負けを喫するも、秋田経大附と松本豊という名を、甲子園に刻んだのであった。