「納得できるボールが投げられるのなら、この試合で潰れても構わない」/ 東海大山形 藤原安弘選手

1985年の夏の甲子園に出場するも、初戦で22点差をつけられ大敗を喫した、東海大山形

当時、チームの4番でエースという大役を担っていたのは、1年時から投打に渡る活躍を見せていた、藤原安弘選手である。

藤原選手は、甲子園の地元、兵庫県から野球留学で東海大山形に進学すると、入部後直ぐから試合に出場し、夏の県大会決勝のマウンドも託された。

しかし、大一番での登板は、序盤のリードを守れずに打ち込まれ、逆転負けを喫すると、以降も、甲子園が見えた試合で敗れるなど、思うような結果が残せずにいた。

そんな悔しさを糧に、猛練習を重ね、時には練習に消極的な仲間を叱責するなど、最後の夏に人一倍強い想いを持って挑んだ。

だが、1年時からの疲労と、猛練習の代償が肘の怪我となって現れ、無理をしながらの登板を続けたことで、県大会決勝で悪化させてしまい、なんとか甲子園出場を決めるも、重症の状態で甲子園に挑むこととなった。

迎えた甲子園でも、怪我の治らないままでの登板となり、初戦で5イニングで20失点を喫し、チームも、毎回得点を許し、29−7で敗れたのであった。

それでも、仲間と共に甲子園を目指した2年半と、甲子園出場という結果は、藤原選手にとって、かけがえのない思い出となった。

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