「監督は仕事と思ってないんです、自分の使命やと思ってやってます」/ 龍谷大平安 原田英彦監督

母校であり、現在指揮を執る龍谷大平安を、誰よりも心の底から愛している、原田英彦監督は、監督という職業を「使命」と受け止め、情熱の全てを注ぎ込んでいる。

小学生時代に平安に憧れて以降、毎日のようにグラウンドに練習を見に行き、甲子園出場ともなれば、ラジオ中継を録音するなど、年齢が上がるにつれ、「平安愛」は増していった。

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高校受験に合格し、幼少期からの夢であった平安のユニフォームに袖を通し、レギュラーや主将も務めた原田監督は、甲子園にはたどり着けなかったが、その後も母校を応援し続けていた。

30歳を過ぎ、野球選手としては現役を引退し、社会人として働く中で、低迷期の母校の復活を託され、監督の依頼が舞い込んできた。

会社への貢献や、家族を養わなければならないことなど、様々な想いから一度は断るも、自身を育ててくれた母校の野球への恩返しするという気持ちを捨てきれず監督に就任した。

再び平安のユニフォームを身にまとい、グラウンドに立った、原田監督の目に映ったのは、自らの愛した平安野球とは程遠いものであった。

キャッチボールやバットの握り方といった、基礎基本ができていないことだけにとどまらず、挨拶や道具の手入れができていないなど、野球以前の問題にも悩まされた。

それでも、大好きな平安のために、OBやファンのために、という想いをモチベーションに、一つ一つできるようになるまで、妥協することなく徹底的に指導を続けていった。

そんな原田監督の努力が実を結び、復活の甲子園出場を果たすと、龍谷大平安史上初のセンバツ優勝を成し遂げ、100回大会では史上2校目となる甲子園100勝の偉業達成にも導いた。

復活を通り越し、再び黄金期を築きつつある原田監督の物語は、平安愛が尽きるまで、終わることはないだろう。

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