「ぶれずに自分が目指すところをしっかりやろう」/ 八重山商工 大嶺祐太選手

2006年の甲子園に、日本最南端の高校として春夏連続で甲子園出場を果たし、夏の選手権では、16強にまで勝ち進んだ、沖縄県の八重山商工

そんなチームを、エースとして支えていたが、中学時代には世界3位に進出した経験を持つ、大嶺祐太選手である。

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大嶺選手は、中学時代の成績が評価されていたこともあり、他の強豪からの誘いもあったが、少年野球時代に指導を受けていた、恩師の伊志嶺吉盛監督を慕って八重山商工へと進学した。

高校野球でも「全国制覇」を目指し練習に打ち込むも、当時は「八重山から甲子園は100年かかっても不可能」と称されていた。

それでも、1日14時間にも及ぶ猛練習で、大嶺選手が2年となった秋の九州大会では、準優勝を成し遂げセンバツ出場を決めた。

部員が少ないことにより一人当たりの練習量は過酷を極めていたが、その練習量は、決して嘘をつかなかった。

センバツでは、初戦で17奪三振を奪う好投で、チームに初勝利をもたらし、八重山商工の勝利の校歌で全国に名を広めた。

続く夏の大会では、大会最速の151キロの豪速球を武器にベスト16まで勝ち進み、高校野球の歴史に大きくその名を刻んだ。

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