1979年の甲子園で、史上初にして最後となる公立高校の春夏連覇を成し遂げた、和歌山県の箕島高校。
当時、チームのエースを務めていたのは、甲子園通算14勝を挙げるなどの成績を残した、石井毅選手である。
石井選手は、箕島高校に進学すると、1年秋にアンダースローに転向したことがきっかけで、2年センバツから主力投手として活躍するようになっていった。
しかし、2年時には甲子園に春夏連続出場を果たしながらも、目標の全国制覇には手が届かず、悔しい結果に終わっていた。
当時はスパルタ指導全盛期ということもあり、敗戦後の練習は、更に過酷さを増し、尾藤公監督からの厳しい指導には、弱音を吐くこともあった。
それでも、甲子園での悔しさがモチベーションとなり、日々の練習に励むと、監督に指示されただけの練習以外にも取り組むようにするなどの、自他ともに認めるほどの圧倒的な努力量で、進化を遂げていった。
迎えた、3年のセンバツ大会では4試合全てを完投し、チームを優勝へ導くと、夏の甲子園にも出場し、連覇を狙った。
夏の甲子園の3回戦では、延長18回にも及ぶ死闘を、257球を投げ抜くなどの熱投でチームに勝利をもたらすと、その後の3試合全てもマウンドにたち続け、見事春夏連覇を成し遂げたのであった。
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