1981年の夏の甲子園で、チーム最高成績となる、4強進出を果たした、愛知県の名古屋電気(現・愛工大名電)高校。
当時チームのエースを務めていたのは、甲子園の2回戦でノーヒットノーランを成し遂げるなどの活躍を見せていた、工藤公康選手である。
工藤選手は、小学生時代から野球を始めるも、当初は「野球が嫌い」ということもあり、練習に対しても消極的で、尚且つ、指導者の意見を聞くということも苦手であった。
しかし、そうした性格に加え、負けず嫌いであったことから、自らで乗り越えていく力を養ったり、少ない練習で成果を出すための工夫する力を身につけていった。
やがて、考える力で自身の野球スタイルを確立していくと、中学時代の成績が評価され、名古屋電気に特待生として進学することとなった。
名古屋電気でも、考える力をベースに、指導者からの指示された練習以外にも、自ら考え出した練習法やトレーニングで力をつけていった。
そのため、指導者からは、在学中にほとんど何かを教わることはなかったが、自身の能力を客観的に観察し、現状から理想へ向けての試行錯誤を繰り返したことで、急速な成長を遂げていったのあった。
迎えた最後の夏は、甲子園出場を決めると、金属バット導入後では初となるノーヒットノーランを記録し、準々決勝では本塁打を放つなど、投打にわたる活躍を見せたのであった。