2000年の甲子園に、春夏連続で出場し、センバツでは準優勝、夏の選手権では全国制覇を成し遂げた、智弁和歌山高校。
当時、主将を務めていたのは、夏の甲子園決勝で2本の本塁打放つなどの活躍を見せ、チームを優勝へに大きく貢献した、堤野健太郎選手である。
堤野選手は、智弁和歌山に入学後直ぐに、難病を発症し、医師からはドクターストップをかけられるという、苦しいスタートとなった。
2年夏にも症状は緩和せず、体重の減少などにも悩まされ、外野での球拾いなどでしか、練習に参加できないなど、過酷な日々を過ごしていた。
それでも、秋以降の新チームでは、病気を通じて身につけた強い精神力を評価され、主将に任命されると、チームをセンバツ出場へと導いた。
その一方で、病気の悪化に伴い、チームで唯一練習に参加できない悔しさや辛さもあったが、チームメイトの励ましや、監督からの言葉に支えられ、主将としての仕事をこなしていった。
センバツでは、準優勝を成し遂げるも、全国制覇を掲げるチームは、敗戦の悔しさを糧に、更なる追い込みを行い、自他ともに認める「地獄の練習」を乗り越え、夏を迎えた。
夏の甲子園では、病気の影響から医師に「1試合2イニング」を言い渡されていいたものの、全試合に出場しては、大活躍でチームを全国制覇へと導き、最高の夏を過ごしたのであった。