「負けからのスタート」を合言葉に、失敗や挫折を何度も乗り越え、 徳島県の無名校であった池田高校を、春夏合わせて3度、全国制覇へ導いた蔦文也監督。
小技に頼らず、豪快な打撃で相手を圧倒するチームを作り上げたことから、「攻めダルマ」という異名で、多くの高校野球ファンから親しまれていた。
蔦監督は、選手時代に甲子園出場やプロに入団するなど、輝かしい道を歩んでいた反面、結果が残せないまま、引退することとなった。
そんな負の連鎖が続くかのように、野球の指導者を志し、池田高校の監督に就任後も、猛練習で選手たちを徹底的に鍛え上げ、自身も人一倍の努力を行うも、20年間、甲子園へ導くことはできなかった。
それでも、かつて自身が挫折から立ち直りを見せたように、負けや失敗を糧に、挑戦を続けることの大切さを選手に伝え、ひたすらノックバットを振り続けていった。
20年越しの夢であった甲子園初出場を果たすと、今度は、全国大会での負けが続くが、敗戦はまたも、蔦監督の原動力くとなり、ターニングポイントともなった。
甲子園出場を果たすまでは、手堅く1点を挙げ、投手を中心とした守りの野球を目指していたが、自身の性格に適さないことや、金属バットが導入されることを機に、大きく野球スタイルを変えた。
金属バットの特性を活かす野球を掲げ、当時では異例の筋力トレーニングを積極的に取り入れると、練習時間の大半を打撃に費やすといった、超攻撃型のチームを作り上げたのだ。
就任から30年を超えた59歳の夏、攻撃型のチームは「やまびこ打線」と称されるほどの圧倒的な打力を誇り、蔦監督を全国制覇へと導いたのであった。
その後も失敗や敗戦を経験しては、立ち上がり、新たな戦法で戦いを続ける蔦監督の野球は、多くの高校野球ファンを熱狂させたのであった。