部員不足に不祥事と、甲子園とは無縁に等しかった、下関国際を一から作り上げ、全国出場へも導いた坂原秀尚監督。
不祥事明けで、監督のいない下関国際野球部を手助けする役目からスタートし、正式に採用されると、「弱者が強者に勝つ」というスローガンを掲げ、本気で甲子園を目指すようになっていった。
しかし、当時の野球部は公式戦で1つ勝ち星を挙げることすら厳しい状態であったことに加え、生活態度やマナーの悪さといった、野球以外のことにも多くの問題を抱えていた。
全てを変えなければ、勝つことはできないと考えと、ルールを作り、事細かに指示を出していったが、あまりの厳しさに部員は1人までに減った。
中学生の勧誘に行けば、実績もないチームに入学を希望する選手はなかなか出会えず、ついには、部員が足りずに公式戦出場すらもできない時期があった。
それでも、誰よりもチームを変えるために動いた坂原監督に、次第に選手たちが心を動かされ、入部希望者も増えると、チームの雰囲気も勝ちを意識するようになっていった。
高校入学以前の選手たちの野球キャリアは、補欠であったりベンチ外であったりと、私学ではあるが、決して恵まれてはいない。
そんな状況ではあるが、野球という一つの物事に徹底して打ち込ませ、小さな成功体験を経験させ、根拠のある「自信」を持たせるようにすることで、強豪校とも互角に渡り合えるまでに成長したのだ。
日々の練習は厳しく、目標に対しては妥協を許さないが、辛さや苦しさも含めた全てが野球の楽しさや面白さであることを伝え、試合では誰よりも喜び、誰よりも楽しんでいる坂原監督を選手たちは、信じて慕っている。
創部54年目にして、甲子園初勝利を挙げ、8強にまで進出し、一躍全国から注目を浴びる存在となった下関国際が、全国の頂点に立つ日は近そうだ。
「「自分の好きなものであっても、葛藤や苦しみは必ず生じるものです」/ 下関国際 坂原秀尚監督」への2件のフィードバック