1957年のセンバツ大会で、初となる紫紺の大旗の箱根越えの快挙を成し遂げた、東京都の早稲田実業。
当時、2年生ながらチームのエースを務めていたのは、初戦から準決勝までの3試合を完封するなどの活躍を見せていた、王貞治選手である。
王選手は、早稲田実業に進学すると、入学から僅か1ヶ月後の春の都大会の決勝のマウンドに立ち、センバツ出場校相手に完封するなど、衝撃的なデビュー となった。
しかし、優勝時に有頂天になり喜んだ姿を見た家族に、相手チームに対する配慮がないと注意を受け、以降は、感情のコントロールの大切さも意識するようになった。
そんな経験が糧となり、チャンスに急いだり、ピンチに焦ることもなくなり、更なる成長に影響をもたらすと、その後の関東大会での優勝、夏の甲子園出場にも貢献したのであった。
甲子園では、制球難という新たな課題に直面するも、フォームの改良と、投げ込みを続けたことで、2年のセンバツ前には克服したのであった。
迎えた春の甲子園では、 初戦から3試合連続完封で決勝へ導くと、決勝戦では8回に3点失うも、自らのバットでも得点に貢献したこともあり、見事優勝を成し遂げたのであった。
続く夏の甲子園では、ノーヒットノーラン、3年春には2本塁打を放つなど、4度の甲子園で、記録にも記憶にも残るプレーを見せたのであった。