2006年に日本最南端からの甲子園出場で全国の高校野球ファンを沸かせた、八重山商工。
センバツ大会では初戦突破をすると、夏の選手権では16強まで勝ち進み、大きな注目を集めた。
八重山の高校野球には、優秀な選手は高校進学時に島を出てしまうことや、他の島との試合に莫大な遠征費がかかってしまうなど、離島ならではのハンデがあった。
そのため、島のチームは県大会の決勝進出が限度で、「100年かかっても八重山から甲子園は無理」と言われていた。
伊志嶺監督はそのハンデを乗り越えるためには、「野球の一貫教育が必要」という独自の打開策を見つけ出し、少年野球チームや中学のクラブチームをつくり、じっくりと選手たちを育てる方針を導入した。
選手以上に本気で「甲子園」を目指していた伊志嶺監督は、島の漁師より早く起きてはグランドに行き準備をし、練習のために必要な道具は借金をしてまで購入するなど、時には自らの人生を犠牲にしてまでも野球に情熱を注いでいた。
しかし、監督就任当初は、選手との野球に対する温度差の違いや、礼儀やマナーを教えることに時間をとられるなど、野球以前の問題で苦労をしていた。
ようやく野球の練習がスタートできたかと思うと、今度は1日14時間にも及びぶ過酷な練習を続けた結果、部員が2人になるトラブルも起こり、先の見えない挑戦は困難を極めていた。
やがて、少年野球時代の教え子たちが入学すると、「野球の一貫教育」の成果が出始め、05年の秋の九州大会では準優勝を果たした。
その背景には、部員数が少ないことも、選手たち一人当たりの練習量が多くなるとプラスに考え、選手たちをさらに鍛えるためにも、転職もしていた監督の存在があった。
一方で、選手が少ないことはレギュラー争いがなく、競争心を欠いてしまうことにも繋がるため、島で合宿を行なっている他県のチームの練習を見学させるなどの、メンタル面の指導も工夫していた。
2016年の夏で、八重山商工の野球部を勇退した伊志嶺監督は、大分の日本文理大付の監督として指導を続けている。
再び伊志嶺監督の野球が甲子園で見られる日は、そう遠くはないだろう。
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