「自分の経験を語れる人間になってほしい」/ 神戸国際大付 青木尚龍監督

野球の技術だけでなく、教育の一環であることから、人間性や生活態度、マナーなども重視される高校野球界において、その両方を急速に成長させ、近年力をつけているのが、神戸国際大付属高校である。

そんな神戸国際大付属の成長の裏には、チームカラーを把握し、選手たちの考え方に理解を示す、OBの青木尚龍監督の指導があった。

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「アクシデントをどう切り抜けていくかというのもチームの力」/ 敦賀気比 東哲平監督

母校の敦賀気比を指揮する東哲平監督は、自身の現役時代の失敗と後悔があったからこそ、北陸勢初の全国制覇へ導くことができたのであった。

東監督は、高校時代には、2年時から甲子園を経験し、チームでも1.2を争う好打者であったことから、当時の監督から「打撃の天才」と称されていた。

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「負けた側のことを思える選手になりなさい」/ 近江 多賀章仁監督

滋賀県勢の悲願である、全国制覇に最も近いと称される近江高校を、30年以上に渡って指導し続けている多賀章仁監督

そんな多賀監督は、「野球に集中できる環境をととのえる」という独自の指導目標を掲げながらも、甲子園の県勢最高成績となる準優勝を筆頭に、幾度も好成績を残し続けているのだ。

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「リスクを恐れて周りができなくなるなら、そこを追求していく」/ 早鞆 大越基監督

選手時代に投手として甲子園準優勝を成し遂げ、その後もプロ野球選手として活躍した経歴を持っていたことから、監督就任時に、大きな話題を呼んだ、大越基監督

大越監督は、プロ野球を引退後、かつて、夏の甲子園準優勝を成し遂げた山口県の古豪、早鞆高校の復活をOBから託され、指導者人生をスタートさせていった。

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「ある程度厳しくする中で褒めることが子どもたちには良い」/ 鳴門 森脇稔監督

うずしお打線」の愛称で親しまれていた、強力打線を武器に1950年代に黄金期を築いた、徳島県の鳴門高校は、低迷期を乗り越え、2010年代に入り、再び甲子園常連校となっている。

 そんな、長きの間、甲子園から遠ざかっていた名門を、復活へと導いたのは、2007年に、2度目の鳴門高校の監督に就任した、森脇稔監督である。

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「僕らは364日苦しくて、たった1日の喜びのためにやっている」/ 明秀日立 金沢成奉監督

勝利至上主義」や、「教育の一環か否か」などとならべられ、高校野球界における課題の重要な一つとして賛否両論ある、地元以外の選手でチーム作りを行う「野球留学制度」。

明秀日立高校を指揮する、金沢成奉監督は、光星学院の監督時代からこの問題と上手く付き合いながら、指導を続けている。

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「与えられた状況で、最善を尽くそうとすることで得られるのが結果です」/ 明石商業 狭間善徳監督

無名の公立高校であった、明石商業が全国トップレベルにまで成長したのには、チームを指揮する狭間善徳監督の、選手たち以上とも称される圧倒的な努力があったからである。

野球に全てを費やし、「間違った努力や足りていない努力は、努力ではない」と身をもって示す姿は、部員だけでなく、他校の名将として語られる指導者ですら一目を置く程である。

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「アドバイスはしますが、最後は本人たちの感覚に任せています」/ 天理 中村良二監督

奈良県だけでなく、全国的にも有名である天理高校に野球推薦ではなく、一般生として入学し、人一倍の努力と練習をこなし、チームを全国制覇へと導いた中村良二氏

そんな経歴から、「天理高校史上最高の主将」と称されていた中村氏は、現在、母校の監督として、自身2度目の全国制覇を目指している。

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「負けるのは悔しかったけれども、これも勲章かもしれない」/ 福井商 北野尚文監督

ユニフォームの左袖に縫いつけられた「」のマークような情熱を、福井商業を指揮していた北野尚文監督は、高校野球の監督という職業に捧げたのであった。

22歳という右も左も分からない若さで、野球部存続の危機にあった福井商業復活を託された北野監督は、とにかく結果を急いでいた。

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