「負けるのは悔しかったけれども、これも勲章かもしれない」/ 福井商 北野尚文監督

ユニフォームの左袖に縫いつけられた「」のマークような情熱を、福井商業を指揮していた北野尚文監督は、高校野球の監督という職業に捧げたのであった。

22歳という右も左も分からない若さで、野球部存続の危機にあった福井商業復活を託された北野監督は、とにかく結果を急いでいた。

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当時のチーム内には、同好会のようなムードがあり、もちろん専用グラウンドもなければ、甲子園や全国制覇といった夢を口にする者など、一人もいなかった。

厳しい練習とは無縁であった選手たちに、北野監督は容赦なく猛練習を課し、ノックバットを振り続け、選手が練習中に倒れることは日常茶飯となった。

初采配となった公式戦で惨敗を喫すると、以降は、それまで以上に練習は過酷さを増し、時間が経つにつれ、部員が次々と辞めていき、ついには3人となった。

それでも、就任当初掲げた、甲子園と北陸勢初の優勝の目標にぶれることなく指導を続け、辞めた部員を説得をするなど、地道な努力も重ね、少しずつの結果を残すようになっていった。

そんな北野監督を筆頭に、12人の部員ながら雪をも溶かす情熱を持つ選手たちを表した「炎エンブレム」を、ユニフォームにつけたことがきっかけで、チームは更なる進化をとげるこことなった。

それまでの福井商業には、名門校や強豪校相手に、不安や焦りを抱き、試合前から名前負けすることがあったが、「炎のエンブレム」効果で、気持ちの上で負けないようになった。

炎のエンブレム」効果は絶大で、12人でセンバツ切符を掴むと、そこから一気に甲子園常連校にまで成長し、気づけば、監督として甲子園歴代2位の出場回数を記録し、敗戦数は1位となっていた。

敗戦数は、歴代最多の36敗という悔しい結果ではあるが、それだけ甲子園に出場し、甲子園に向かって情熱を注いだ北野監督には、「炎のエンブレム」と共に、勲章のように輝いている。

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