「目標を持って自分たちで主体的にやっていかないと結果は出ない」/ 江の川 谷繁元信選手

1988年の夏の甲子園で、初の8強まで勝ち進んだ、島根県の江の川高校(現・石見智翠館高校)

当時、チームの4番打者を務めていたのは、高校通算42本塁打を記録し、大会ナンバー1スラッガーとして注目されていた、谷繁元信選手である。

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谷繁選手は、小学2年から野球を始めると、投手を中心にプレーすると、6年時には、地元の広島では有名選手として認識されるまでに成長したものの、高校進学は受験に失敗し、他県の江の川へと入学することとなった。

江の川では、慣れない親元を離れての寮生活や野球中心の学校のスタイルに苦戦しながらも、1年春から投手としてベンチ入りを果たした。

投手としては思うような成績が残せず、捕手へと転向することになったものの、打者としては活躍し、1年の夏から中軸を担うこととなった。

しかし、2年夏には、4番打者としてチームを全国へ導くも、甲子園では、ノーヒットで2三振、チームも初戦敗退を喫するなど、全国のレベルの高さを痛感させられることとなった。

そんな悔しさから、主将となった最後の一年は、嫌われ役に徹し、厳しい練習を自身やチームメイトに課し、更なる進化をめざしていった。

迎えた最後の夏は、県大会7本塁打の大会記録を作り、圧倒的な強さで甲子園出場を果たすと、背中とバットでチームを8強まで導いたのであった。

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