「どんな植物でも、ずっと日なただと枯れちゃう」/ 駒大苫小牧 香田誉士史監督

2004年の夏の甲子園で、北海道の高校野球の歴史を、全国制覇という最高の結果で変えた駒大苫小牧

当時チームを指揮していた香田誉士史監督は、名だたる名将や名門ですら成し得ることのできなかった偉業を、就任から僅か10年で成し遂げふという離れ業をやってのけた。

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香田監督の指導者人生は、30年近く甲子園から遠ざかっていた駒大苫小牧の復活を託されてスタートした。

しかし、九州出身で選手時代には佐賀商業の中心選手として甲子園を3度経験していた香田監督にとって、弱小校で雪国の駒大苫小牧の指揮は、苦難の連続であった。

選手の野球への意識を変える取り組みを行えばボイコットされ、ようやく選手がやる気になっても、冬の雪には練習を阻まれるなど、慣れない環境に諦めすらも感じ始めていた。

そんな香田監督は、社会人野球で北海道のチームを指揮し、数々の実績を残し、後に興南春夏連覇へ導くこととなる、我喜屋優監督の「冬でも外で野球ができる」という言葉に刺激を受け、雪国では前代未聞の「雪上練習」を行うこととなった。

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最初は外野ノック程度であった雪上練習は、次第にシートノックや、紅白戦にまで発展したことで、他の地区に練習量で劣らないようになっていった。

その結果、2004年に全国制覇を成し遂げると、翌年には連覇を達成し、3年連続の決勝進出を果たした年には、球史に残る引き分け再試合で準優勝するなど、一時代を作り上げた。

連覇を達成した後は、不祥事で世間からのバッシングを浴びたり、チームがバラバラになるなど、今度は野球以外の面で苦労を強いられるも、それらを全て、糧にして乗り越えていった。

何事にも言い訳や不満を言わず、高校野球界に一石を投じ、歴史を変えた香田監督の復活を、多くのファンは待ち望んでいる。

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