2007年の夏の大阪大会で、その年のセンバツ8強で、優勝候補の筆頭でもあった大阪桐蔭を敗り、甲子園出場を果たした、金光大阪。
当時チームのエースを務めていたのは、140キロの速球とキレのある変化球を武器に、激戦の大阪を制する立役者となった、植松優友選手である。
植松選手は、ソフトボールやサッカーなど複数のスポーツ経験があったことから、金光大阪に進学後も、最後まで野手部とサッカー部を迷い、野球部に入部したのであった。
入部後は、100人を超える部員が在籍していたことから、レギュラー争いが激しかったが、植松選手は得意としていた肩の強さと速球をアピールし、投手として試合に出場する機会を貰うこととなった。
しかし、両親の離婚に伴う経済的な理由で学校を自主退学することなり、野球も同時に引退することとなった。
それでも、コーチのサポートや親戚からの支援、仲間からの言葉で金光大阪へ再び戻れることとなったのであった。
野球ができる喜びと嬉しさを学び、あらゆる人に受けた恩をプレーで返すために、植松選手は、志の高い練習をスタートさせていき、プロ入りも本気で目指すようになっていった。
その結果、府内の世代最大のライバルであった中田翔選手に1本も安打を許さず、最後の夏には甲子園出場を果たし、プロ入りの夢も叶えたのであった。