延長や逆転、サヨナラなど高校野球にはいつまでも語り継がれるであろう、「名勝負」が多数存在する。
そんなドラマチックな「名勝負」とは異なった形で現在まで語り継がれている試合がある。
明徳義塾を率いていた馬淵史郎監督の作戦である「松井選手への5打席連続敬遠」が物議を醸したのだ。
ルールの範囲内であったものの、極端すぎる作戦と采配をした、明徳義塾と馬淵監督に猛烈な批判やバッシングが起こったのである。
球場内には明徳義塾の勝利の校歌をかき消すほどの「帰れ」コールが響き渡るといった前代未聞の試合となった。
その影響もあってか、明徳義塾は92年夏を最後に甲子園から遠ざかった。
馬淵監督はその間も、正月も休まぬ勢いで猛練習を行っていたが、チームは県大会の決勝にすら進めなかった。
そんな苦しい期間が続く中で、馬淵監督は練習を見直し、質が量を上回ることを学び、量ではなく質を拘りはじめた。
量をこなすことで、どこか満足していた監督と選手たちは、試合のためではなく、練習のための練習をしていたのであった。
勝負に拘る姿勢は変わることはなかったが、勝負というもの以外にも目を向けるようになったのだ。
練習を改めたことで96年のセンバツに久々に出場すると、2002年には夏の甲子園で全国制覇を成し遂げた。
伝説の試合から10年間、苦しみ学んだ名将は、「帰れ」コールの暗黒のトンネルから「おめでとう」の歓喜の渦へとチームを導いたのだった。
「「日本一の練習をしたから、日本一になれるわけじゃない」/ 明徳義塾 馬淵史郎監督」への2件のフィードバック