センバツ大会では、2006年まで一度も勝利を挙げたことがなかったことから、「全国最弱」とまで称されていた新潟県勢。
そんな県の歴史を塗り替えたのが、「強打」を代名詞にチーム作りを行っていた、日本文理の大井道夫前監督である。
大井監督は、選手時代に宇都宮工業のエースとして、甲子園の準優勝へ導いた経験や、社会人野球で活躍した実績あったが、当時無名の日本文理の指導には苦戦を強いられていた。
創部3年のチームには、道具も人も揃っておらず、選手たちにも「勝利」に対する気持ちがなく、「弱小」という雰囲気が漂っていた。
部員集めのために自ら中学生の勧誘に足を運んだり、全国トップレベルのチームの練習を見学させ、「甲子園」を意識させるなど、地道な努力を続けていった。
大井監督の努力が実り、就任12年目で初の甲子園出場を果たすのであったが、甲子園では大敗を喫し県のレベルの低さを痛感させられた。
しかし、甲子園では、全国レベルを知ると共に、強豪の練習や名将のアドバイスからヒントを貰い、甲子園での勝ち方を意識した練習をスタートさせるきっかけにもなった。
また、指導者頼みや監督任せでは勝てないことも学んだため、選手に考えさせる野球を追求するようにもなっていき、この頃から手応えを感じるようになっていった。
その結果、就任から20年を超えた2006年のセンバツでは、悲願の県勢初勝利を挙げ、09年には球史に残る激闘を繰り広げての準優勝を成し遂げ、全国に新潟県の強さを知らしめた。
全国最弱からの脱却に、歴史に名を残すまでに県とチームを成長させた名将は、多くの記憶と記録を残し、2017年にユニフォームを脱いだ。