1984年の夏の甲子園で、優勝候補を次々と倒し、茨城県勢初の甲子園優勝を成し遂げた、取手二高。
当時、チームの主将を務めていたのは、甲子園の決勝で本塁打を記録するなどの活躍を見せた、吉田剛選手である。
吉田選手は、中学時代1番三塁手として活躍していた反面、学校生活では問題を起こすこともあり、 取手二高に進学後も、素行に問題があり、喧嘩などで学校から3回の停学処分を受け、校内では退学の話が浮上するほどであった。
2年夏の新チームで主将に任命されて以降も、野球以外の遊びに夢中な状態は変わらず、結果が残せていない野球には嫌気がさし、吉田選手は辞めることも考えていた。
それでも、名将、木内幸男監督の説得やプロ野球から注目されていることもあり、再び甲子園を目指し、野球に打ち込むようになっていった。
そんなチームは、夏の大会直前に行ったPL学園との練習試合で、大敗を喫したことがきっかけで、更に練習に力をを入れるようになっていった。
迎えた、最後の夏は見事甲子園出場を果たすと、決勝戦では練習試合で敗れたPL学園にリベンジを果たし、全国制覇を成し遂げたのであった。
野球と私生活をメリハリをつけて楽しんだ吉田選手と取手二高ナインは、伝説として現在も語り継がれている。