2006年、離島勢として初となる春夏連続で甲子園出場を果たし、全国から注目を集めた、沖縄県の八重山商工。
そんなチームを約20年指揮していたのは、中学野球チームの監督時代に世界大会4強へ導いた実績を持つ、伊志嶺吉盛監督である。
伊志嶺監督は、周囲から「100年経っても無理」とされていた「八重山から甲子園」という目標を実現するために、様々なことに取り組んでいた。
1978年に最初に監督に就任した際に、高校の2年半では成長に限界があると感じ、83年に勇退し、小学生時代からの「一貫指導」をスタートさせ、小中学生のチームの指導を自ら行うようになっていった。
監督の長い努力が実を結び、少年野球チームが結果を残し始めた2003年に、再び八重山商工の監督に復帰すると、教え子たちの多くが監督を慕い入部したことで甲子園出場の期待が高まった。
そんな状況にも伊志嶺監督は満足ぜす、多い日には1日14時間にも及ぶ練習で選手たちを徹底的に鍛え上げていった。
また、自ら借金をしてまでバッティングマシーンやネットを購入したり、練習や試合に専念するために転職をするなど、人生を野球に捧げる覚悟で監督を務めていた。
2006年のセンバツに悲願の甲子園出場を果たすと初勝利を挙げ、続く夏の大会では16強まで勝ち進む快進撃で、その名を全国に広めたのであった。
「「自分は上手い、強いとか、思ったら上手くならない」/ 八重山商工 伊志嶺吉盛監督」への1件のフィードバック