「結果も当然大切ですが、自分の目指しているところを明確に持つことが大事」/ 常総学院 仁志敏久選手

1987年の甲子園に、春夏連続で初出場を果たし、夏の選手権では、準優勝を成し遂げた、茨城県の常総学院

当時、1年生で唯一のレギュラーとして試合に出場していたのは、準々決勝でランニングホームランを放つなどの活躍を見せていた、仁志敏久選手である。

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「習慣になっていないことをしようとするから苦痛を伴う」/ 米子東 紙本庸由監督

私学の強豪がしのぎを削る現代の高校野球の中で、公立の進学校、米子東高校を復活へと導いた、紙本庸由監督の指導は、経営者並みの手腕であった。

米子東は、第1回大会からの皆勤校であることに加え、センバツ準優勝を記録するなどしていたことから、かつては、全国レベルの強豪として認識されていた。

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「納得できるボールが投げられるのなら、この試合で潰れても構わない」/ 東海大山形 藤原安弘選手

1985年の夏の甲子園に出場するも、初戦で22点差をつけられ大敗を喫した、東海大山形

当時、チームの4番でエースという大役を担っていたのは、1年時から投打に渡る活躍を見せていた、藤原安弘選手である。

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「泣きたい時もあると思いますが、それは勝つためのエネルギーになります」/ クラーク記念国際 佐々木啓司監督

創部3年目にして、夏の甲子園史上初の通信制の高校として、出場を果たしたことで、全国から注目を集めた、北海道のクラーク記念国際

そんなチームの快進撃は、かつて、駒大岩見沢を全国レベルに育て上げた名将、佐々木啓司監督の支えてがあったからである。

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「強い意志をもって投げることが大事」/ 鹿児島実 杉内俊哉選手

1998年の夏の甲子園に、県大会3連覇を成し遂げ出場した、鹿児島実業高校。

当時、チームのエースを務めていたのは、甲子園の初戦でノーヒットノーランを達成するなどの活躍を見せていた、杉内俊哉選手である。

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「試合で勝つためにはいろんな能力を使わないとダメ」/ 上田西 原公彦監督

甲子園出場時に、技術でのミスに対して一切怒らず、選手たちにのびのびプレーをさせる指導をしていたことで、全国から賞賛の声を浴びたのは、上田西を指揮していた、原公彦監督である。

そんな原監督は、軟式高校野球の指導者として、6年間で2度も全国大会へ導いた実績もあったことから、就任当初は、技術面での指導が注目を集めていた。

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「いついかなるピンチでも平常の落ち着いた気持ちを持つ」/ 早稲田実業 王貞治選手

1957年のセンバツ大会で、初となる紫紺の大旗の箱根越えの快挙を成し遂げた、東京都の早稲田実業

当時、2年生ながらチームのエースを務めていたのは、初戦から準決勝までの3試合を完封するなどの活躍を見せていた、王貞治選手である。

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「一球への気概が勝っていれば、負けない確率が高くなる」/ 駒大苫小牧 佐々木孝介監督

選手時代に主将として、北海道の高校野球史を塗り替えた佐々木孝介氏は、母校、駒大苫小牧の監督として、復活とその先の全国の頂点を目指している。

かつては、3年連続で甲子園の決勝に進出し、黄金期を築いたチームも、その後は甲子園から遠ざかり、部員の激減や予選の初戦敗退などが続いていた。

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「投手は『こいつのためなら』と、野手に思ってもらえないといけない」/ 松山商業 井上明選手

2年連続の出場となった、1969年の夏の甲子園で、決勝戦引き分け再試合を制して全国制覇を成し遂げた、愛媛県の松山商業

当時、チームのエースを務めていたのは、2年時から主力投手として活躍していた、井上明選手である。

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