「とにかく誰よりも練習をやることが大切」/ 横浜 涌井秀章選手

2004年の夏の甲子園で、優勝候補として徹底マークされる中、前評判通りの活躍を見せ、8強進出を果たした、横浜高校

当時、チームのエースを務めていたのは、最速148キロの速球を武器に、3試合連続2桁奪三振を記録していた、涌井秀章選手である。

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涌井選手は、小学生時代はソフトボールをしており、本格的な野球は、中学校にシニアリーグのチームに入ってからスタートであった。

それでも、急ぐことなく基礎から丁寧に練習を続けたことで、成果を残し、高校進学時には様々な学校から声がかかる存在となった。

そうした中、横浜高校へ入学すると、慣れない寮生活に苦戦し、一時は12キロも痩せるなどしたが、食トレや走り込みなどをコツコツとこなしたことで、徐々に頭角を現し、2年時の春には甲子園のマウンドを経験し、準優勝にも貢献した。

しかし、決勝戦で大敗したことに加え、その後の2大会は連続で甲子園出場を逃すなど、周囲からの期待やマークされたことで、自身のピッチングが中々できずにいた。

そんな悔しさを糧に、 冬場には徹底した走り込みを行い、下半身を強化すると、一球ごとの結果に感情を左右されないためのポーカーフェイスも身につけ、メンタル面も向上させていった。

迎えた最後の夏は、全国制覇を果たせなかったものの、36回を投げ、40奪三振、与四死球6、防御率2.75という驚異的な数字を甲子園に残し、その後行われた国体では、優勝へ導いたのであった。

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