「勉強ができなくても頭は使える」/ 如水館 迫田穆成監督

広陵広島商業といった名門を筆頭に、中国地区で最多となる甲子園優勝を記録している、広島県。

そんな広島で、平成9年に甲子園初出場を果たし、23年の夏の選手権では八強入りするなど、県や地区だけでなく全国でも上位進出の実績を残しているのが、如水館高校である。

チームを指揮していたのは、広島商業で選手・監督として甲子園制覇を経験している迫田穆成監督である。

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平成5年に如水館の監督に就任すると、約25年間で春夏合わせて、8度甲子園へチームを導いた。

迫田監督は、力では劣る相手にも選手の能力を最大限に引き出す作戦で、勝利を挙げていたことから、「知将」と称されている。

広島商業の監督時代には、甲子園の決勝で相手のスクイズを阻止した裏の回に、「サヨナラスクイズ」で全国制覇を成し遂げるなど、予測不可能な作戦で相手チームを翻弄していた。

昭和の怪物」と称されていた、作新学院の江川投手相手にも、球数を投げさせ、投球のリズムを崩し、ワンチャンスで得点を挙げ、11三振を喫しながらも、2安打と8四球で勝利した試合は、迫田監督の野球を象徴するものであった。

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このように、「勝負に負けても結果に勝つ野球」を意識していたため、選手にあらゆる作戦のパターンを練習させていた。

しかし、如水館の監督就任後は、全国的にも「パワー型の野球」が中心となっていたため、迫田監督の細かな策で1点を挙げる野球では、甲子園出場はできても、甲子園で勝てない状態が続いていた。

そこで、還暦を過ぎたベテランの領域に達している監督としては異例の、若手監督の指導を勉強するために、自ら全国を周り選手との接し方などから学び直していった。

その際学んだ、「自主性」を大切にしながら、一方通行ではなく対話を繰り返す、新たな指導スタイルで、如水館の野球を確立していった。

そして、広島商業時代から変わらず、選手たちを公平に扱いながら、一人一人の気持ちを掴み引き出し、チーム力で戦う野球も融合させたことで、激戦の広島や全国の舞台でも勝ち抜くことができたのであった。

時には、昔遊びを通して身体の動きを学ばせるなど、今時選手たちの指導を短期間で習得し結果を出したこともあった。

広島の高校野球の歴史を作り続けている迫田監督の、如水館での挑戦は終わったが、80歳という年齢の壁にも臆することなく、竹原高校の監督として次なる夢を追いかけている。

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