「地元の兵庫の学校が初戦で負けるわけにはいかない」/ 報徳学園 小園海斗選手

2018年の夏の甲子園で、下馬評を覆し8強進出を果たした兵庫県の報徳学園高校。

当時のチームを走攻守で引っ張っていたのは、2年時から高校日本代表に選ばれるなどの実績を持ち、世代ナンバー1遊撃手とも称されていた、小園海斗選手である。

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「相手の一番のボールを打ち返したい」/ 広陵 中村奨成選手

2017年の夏の甲子園で、驚異的な打撃力で勝ち進み、4度目となる準優勝を成し遂げた、広島県の広陵高校。

当時チームの4番捕手を務めていたのは、夏の甲子園最多本塁打記録となる6本塁打を放つなどの活躍を見せた、中村奨成選手である。

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「気持ちが一番強いチームが勝つ」/ 履正社 寺島成輝選手

2016年の夏の甲子園でベスト16入りを果たした、大阪府の履正社高校。

当時チームのエースを務めていたのは、最速150キロを甲子園で記録し、日本代表にも選出された、寺島成輝選手である。

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「自習練習では満足いくまで練習をすること」/ 東海大菅生 勝俣翔貴選手

2014年の秋の東京都大会を18年ぶりに制して、センバツ大会出場を果たした東海大菅生高校。

当時チームの投打の主軸を務めセンバツ出場に貢献したのは、高校日本代表にも選出され、打点王と首位打者の二冠に輝く実績を残した、勝俣翔貴選手である。

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「一球一球を追いかけていくことしか、目標に近づく道はない」/ 済美 安樂智大選手

2013年のセンバツで、初出場時から続く春の甲子園の連勝記録を9に伸ばし、準優勝を成し遂げた愛媛県の済美高校。

当時チームのエースを2年生ながら務めていたのは、全5試合に先発登板し46イニングを投げる力投を見せ、全国から注目を集めた安樂智大選手である。

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安樂選手は、地元の名門済美に進学する際に、「全国制覇」、「球速160キロ」、「ドラフト1位でプロ入り」という約束を上甲正典監督と交わしていた。

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大きな目標を叶えるために、入学後すぐから他の部員以上の練習量を自らに課し、厳しいトレーニングやランメニューにも積極的に取り組んでいった。

練習量が評価され、1年秋の新チームからは背番号1を背負い、秋の県大会と地区大会を勝ち抜きセンバツ出場を決めると、更なるレベルアップを目指し、新たな変化球の取得とストレートの精度を磨くことをスタートさせていった。

迎えた2年春の甲子園では、772球の熱投でチームを準優勝に導き、夏の甲子園では大会最速記録に並ぶ155キロを記録し、日本代表にも選出された。

全国の舞台での数々の成績で周囲から評価や期待をされる一方、「投げ過ぎ」で怪我をしてしまい、2年秋の以降は投球が難しい状態となっていった。

それでも主将としてチームを支える役割とリハビリを並行して行い、最後の夏には約300日ぶりの公式戦のマウンドに復帰を果たし、悲願のドラフト1位でプロ入りを果たしたのであった。

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「練習で出来ないことは、試合で出来ない」/ 仙台育英 上林誠知選手

2013年の夏の甲子園の初戦で、壮絶な打撃戦を制してこの年のセンバツ優勝校の浦和学院を敗る大金星を挙げた、仙台育英高校。

当時チームの主将を務めていたのが、チームの主軸として秋の神宮大会優勝の立役者となった、上林誠知選手である。

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上林選手は、小学1年時から野球を始めると、中学時代には全国優勝を経験するなどの実績も残していた。

仙台育英に進学後は、1年秋から4番としてスタメンで試合に出場し、2年の夏の甲子園では、3試合で打率4割5分を超える高打率を残し、全国からも注目を浴びる存在となっていった。

そんな試合で多くの結果を残していた上林選手を支えていたのは、試合に向けての「準備力」と試合でベストを「出し切る力」であった。

ルーティンを意識し、練習を試合と同じ気持ちや感覚でで取り組むことに加え、グランド外の私生活においても「普段通り」を徹底し、起床時間や睡眠時間にも変化をつけないようにし、余計なことに緊張感を使わずにしていた。

そして、万全の状態で臨む試合で本領を発揮できない場合でも、できることを探してチームの勝利に貢献できる役割を見つけて徹するなど、その日の自身の100%を出し切ることを欠かさず続けていた。

試合までの準備と試合での対応力を身につけたことで、2年の秋の神宮大会では攻守の活躍で全国制覇に貢献し、不調に苦しんで3年時にも甲子園に春夏連続チームを導いたのであった。

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「自己管理という面で一番大事なのは毎日の反省」/ 花巻東 大谷翔平選手

2012年のセンバツ大会に夏春連続で出場を果たし、優勝候補にも挙げられていたのが、岩手県の花巻東高校である。

当時チームの投打の中心選手として、全国から注目を集めていたのが、大谷翔平選手である。

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小学3年生から野球を始めた大谷選手は、県勢初のセンバツ準優勝を成し遂げた09年の花巻東のチームカラーと菊池雄星選手に憧れ進学した。

小学5年時に110キロを超える球速を記録していたことや、中学時代に全国大会に出場していたこともあり、入学時から注目を浴びていたが、身体の成長段階であるという指導者の判断から、1年時は投手より負担の少ない野手としてスタートしていった。

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野手の時代には、明確な目標を立て、自己管理を徹底し、反省して課題を見つけるなど、技術以上に、目的への正しいプロセスを学び身につけていった。

目標にも具体的な数字や達成までの日数を掲げ、グランドだけでなく私生活においても一日一日の過ごし方に細かくノルマを設けていた。

その結果、1年秋の新チームからは投手としても結果を残しはじめ、怪我で調整が難しい中で出場した2年の夏の甲子園では、2年生としての最速記録に並ぶ150キロを記録するなど、確実に成長を遂げていった。

迎えた最後の夏は甲子園出場は逃すも、アマチュア野球史上初の160キロを記録し、高校野球の歴史に名を残したのであった。

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「人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることが出来る」/ 創志学園 野山慎介選手

2011年のセンバツに、創部から僅か1年で甲子園出場を果たし、全国から注目を集めた岡山県の創志学園高校。

当時チームの主将を務め、センバツ大会では選手宣誓も行なったのが、野山慎介選手である。

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「普通に生きていられて、野球ができることが一番の幸せです」/ 日大三高 山﨑福也選手

2010年のセンバツ大会の決勝で、延長12回の末敗れるも準優勝を果たした東京都の日大三高

そんなチームの投打の中心選手として、投げては全試合に先発し防御率2.55を残し、打っては大会タイ記憶の13安打を放つなど活躍していたのが、山崎福也選手である。

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