「人間が本物にならなければ、野球も本物にならない」/ 仙台育英 竹田利秋監督

東北地方の高校野球の歴史を作ってきた、宮城県の東北高校仙台育英高校。

その両校で27年間監督として、チームを甲子園へと春夏合わせて27度導き、多くのプロ野球選手を育て上げ、30の勝ち星を記録したのが、東北を代表する名将、竹田利秋監督である。

竹田監督は、1968年に東北高校の監督に就任すると、17年間で春夏合わせて17度甲子園へチームを導き、85年に仙台育英に移ると、89年の夏の甲子園では準優勝を果たすなど、多くの記録を残している。

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近年は、東北勢が全国の舞台で上位進出の常連となっているものの、竹田監督が指揮を取り始めた当時は、組み合わせ抽選会で東北地区や北海道の代表校と対戦が決まれば、相手チームから歓声があがるほど、「弱小」のレッテルが貼られいた。

当時の東北勢が、他の地区より個々の能力が劣っていたわけでも、選手層に厚みがなかったわけではないが、「」により冬場に練習ができず、その間の練習量の差が甲子園で影響していたのだ。

しかし、日の入り時間は西日本より早く、照明や室内練習場もない当時環境にも、竹田監督は言い訳することなく、「雪=ハンデ」という考えを根本から変えていった。

練習時間を確保するためには、着替えの時間も無駄になると考え、制服の下に練習着を着て授業を受けさせることもあった。

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その一方で、監督就任間もない頃は、指導者としての実績がなかったことから選手たちからなかなか信頼を得られずにいた。

そこで、自ら率先して練習準備を行ったり、時には練習試合で相手チームの監督からアドバイスを貰ったりと、選手以上に努力を重ねていった。

やがて、監督の努力とハンディを意識しなくなった猛練習で結果が出るようになると、新たな取り組みとして、選手の力を引き出す指導を始めていった。

仙台育英の監督に就任してからは、不祥事後の再建を託されていたこともあり、闇雲に怒鳴って無理やり一つの方向を向かせるのではなく、じっくりと時間をかけた指導へと方針を変えた。

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選手一人一人と個別に対話をしながら、能力を無駄なく引き出す指導を徹底し、選手に練習メニューを考えさせるなど、自ら動ける選手を育てていった。

東北高校時代に身につけた技術指導を継承しながら、新たに人間的な部分の成長も選手たちに求めていった。

長年の指導から、「指導法に終着駅がない」という持論を軸に、選手を成長の軌道に乗せ育てたことで、多くの勝ち星を挙げ名選手を輩出できたのだろう。

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